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国家の品格について(6)(天皇)
2006年2月6日
宇佐美 保
『週刊ポスト(2006.1.27)』にて、「昨年秋に上梓した『国家の品格』(新潮新書)が20万部を超えるベストセラーとなった数学者の藤原正彦氏も異を唱える」との記事が載っていました。
そこでは、藤原氏は“女性天皇は日本の品格を破壊する”と語っておられます。
私は、藤原氏の論が、屁理屈に思えてなりません。
藤原氏は、氏の著作『国家の品格』にて、「論理の出発点を選ぶ情緒や形は論理と同等、またはそれ以上に重要です」と次のように記述しています。
論理が非常に重要なのは言うまでもありませんが、それは世界中の人が声高に言っているから、私はわざわざ言いません。しかし、この出発点を選ぶ情緒や形の重要性については、世界中誰一人言っていないようなので、私が声高に言うのです。これは論理と同等、またはそれ以上に重要です。 |
この為か、藤原氏の次の見解は、論理よりも「(藤原氏個人の)情緒や形」が突出し過ぎていると思います。
初代の神武天皇から第125代の今上天皇(現在の天皇)に至るまで、皇位の継承はただの一度の例外もなく、男系で行なわれてきました。父方を辿ると必ず過去の天皇に行き着く者だけが皇位についてきた、ということです。歴史上、8人10代の女性天皇(2人が2度ずつ即位)がいましたが、いずれも男系の女子です。つまり、皇統の万世一系とは男系のことなのです。 世界を見回しても、このように男系だけで、しかも神話の時代も含めれば2670年近くも、その地位が継承されてきたのは日本の天皇だけです。ところが、報告書がいうように、女性天皇ばかりか女系天皇まで認めてしまうと、連綿と続いてきたこの国の伝統が破壊されてしまいます。 |
古代の天皇の信じられない長寿を藤原氏は、どのような論理で説明するのでしょうか?
論理ではなく、情緒で納得するのですか?
次に、『大和朝廷の起源(安本美典著:勉誠出版)』から古代の天皇の寿命を抜粋させて頂きます。
順位 |
天皇名 |
代 |
『古事記』記載の寿命 |
『日本書紀』記載の寿命 |
1 |
崇神天皇 |
10 |
168歳 |
102歳 |
2 |
垂仁天皇 |
11 |
153 |
140 |
3 |
神武天皇 |
1 |
137 |
127 |
4 |
景行天皇 |
12 |
137 |
106 |
5 |
孝安天皇 |
6 |
123 |
(137) |
6 |
孝霊天皇 |
7 |
106 |
(128) |
7 |
成務天皇 |
13 |
95 |
107 |
8 |
孝昭天皇 |
5 |
93 |
(114) |
9 |
開化天皇 |
9 |
63 |
115 |
10 |
孝元天皇 |
8 |
57 |
(116) |
カッコ()内の数字は、立太子時の年齢から求めたもの。
又、『天皇誕生(遠山美津男著:中公新書)』には、次の記述があります。
仁徳が、王朝発展のもとになる子孫繁栄を保証する多くの恋愛にめぐまれていたのに対して、武烈が概して女性関係にめぐまれず、そして子孫も得られなかったと描かれたのは、ひとえに、彼の代で王朝の歴史が終わりを告げると見なされたからであった。 他方、オハツセノワカサザキとよばれた武烈は、オオハツセノワカタケこと雄略天皇とハツセ・ワカを共有していた。そのため、雄略と同様、というよりも、それ以上に平然と人を殺戮する忌むべき君主という設定になっているのである。 さて、この武烈が亡くなった後は、その姉タシラカノ(手白髪)皇女の夫であり、「ホムタノ天皇(応神)の五世孫」を称する継体天皇が即位し、とりあえず皇統の断絶は回避されたかのように描かれている。だが、『日本書紀』 に描かれた武烈の個性やその行状自体は、王朝の始祖とされた仁徳とは正反対のものであり、それは明らかに、皇統を断絶に追い込んで、王朝の歴史に終止符を打つことになる王朝最後の天皇の乱行であり狼籍にほかならない。この点から考えるならば、『日本書紀』は、武烈の死去によって一つの王朝の歴史に幕が降ろされたことを、はっきり主張しようとしていたといえるであろう。 ・・・ すなわち、継体が応神五世孫ということになっているのは、八世紀の初頭に完成した律令制国家の制度をふまえた作為なのではないかという疑いがみとめられるのである。律令制のもとでは天皇の一族は特定の天皇から数えて四世まで(後に五世までと改定された)とされていた。 だから、武烈の後を継いだ継体は、武烈から見て遠縁とはいえ、ぎりぎりで皇親の範囲におさまる四世(あるいは五世)王でなければならないとされた、というわけである。 だが、この説明には疑問が多い。皇親の範囲を四世までとする当初の制度にしたがえば、継体の父、ウシノ王までが皇親であり、継体はその埒外になる。 皇親を五世までとする改定後の制度によれば、たしかに継体は滑り込みセーフで皇親となる。 しかし、古代において世代の数えかたには二通りがあって、子を一世とする数えかたによれは継体は五世王となるが、本人を一世とする数えかたにしたがえば、彼はなんと六世王ということになってしまう。 律令皇親制の規定は、継体即位の正当性をかならずしも保証するとはいえないのである。 |
遠山氏の「武烈の死去によって一つの王朝の歴史に幕が降ろされたことを、はっきり主張」との見解は兎も角としても、「天皇(応神)の五世孫」を称する継体天皇が即位」の件を藤原氏はどのように解釈されるのでしょうか?!
更に、藤原氏は「皇統の万世一系とは男系のことなのです」と記述されていますが、
旧皇族の男子を迎えて男系維持をはかるといっても、 その方々と、皇太子殿下との共通の父方の天皇は、 20世代(以上)ほど遡った北朝第3代の崇光天皇です。 |
(南北朝に分かれる前の歴代天皇では、更に2世代遡った後伏見天皇です。)
更には、藤原氏の次の記述は如何でしょうか?
最初に話したように、日本の場合、伝統中の伝統は皇統の万世一系です。実は、外国の知識人はそのことを鋭く見抜いています。 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。万世一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめた・・・・・・我々は神に感謝する。日本という尊い国を造っておいてくれたことを」 これは、1922年に来日したアインシュタインが残した言葉です。また、ローマ法王が各国を訪問すると、ふつうはその国の王族や政治指導者が法王の宿舎を表敬訪問するのが慣例になっています。ところが、81年に来日したときには、逆に法王が皇居を訪問し、天皇陛下と会見しました。 これは、世界の王室より格が上のものとして敬意を払われているためです。 |
先ず、藤原氏は「アインシュタインが残した言葉」を重視していますが、同じ藤原氏は『国家の品格』の中では、「アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくても二年以内に誰かが発見しただろうと言われています」と記しアインシュタインの天才性を低く見ています。
なのに、今回では、アインシュタインの言葉をご神託のように崇めています。
更に、「ローマ法王が、81年に来日したときには、逆に法王が皇居を訪問し、天皇陛下と会見しました。これは、世界の王室より格が上のものとして敬意を払われているため」との見解も如何なものでしょうか?
ローマ法王が訪問された世界各国の多くは、日本と異なりキリスト教関係国であったのではありませんか?!
ですから、次の朝日新聞(1993年9月4日)の記事の如くに天皇陛下がイタリアを訪問された際には、法王の離宮をお訪ねされています。
(法王が、両陛下のご宿泊先を訪ねられているのではありません。)
ヨーロッパ三カ国訪問に出発した天皇、皇后両陛下は三日、最初の訪問国イタリアのローマに到着、郊外の夏季法王離宮カステル・ガンドルフオでローマ法王ヨハネ・パウロ二世と会見した。 一九八一年二月の法王来日の時の思い出や平和と教育の大切さなどについて話がはずんだ。 ・・・天皇陛下は「広島、長崎に行って頂いて大変ありがたかった。日本の基本姿勢は平和希求であり、法王のスピーチには大変感銘を受けました」と語った。 法王が広島で「人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在。険しく困難だが、平和への道を歩もうではないか」と呼びかけた「人間性のため、全世界に向けてのアピール」を指したものだ。・・・ |
そして又藤原氏は次のような「愚論」を吐いています。
もし、「女性天皇」が認められ、皇位の継承が第1子優先で行なわれれば、いずれ愛子さまが天皇に即位します。ここまでは伝統に大きく反しません。なぜなら、男系の女子だからです。 しかし、さらに「女系天皇」まで認めると、どういう事態が起こるでしょうか。 おそらく愛子さまは民間人の男性と結婚し、お子様を産むでしょう。いずれそのお子様が天皇に即位します。 あり得ない仮定ですが、もしも、私の息子が愛子さまと結婚すれば、天皇家は男系で見れば、信州の田舎の出身である藤原家の王朝になってしまいます。藤原王朝となった皇室を国民は尊崇するでしょうか。そんな皇室はなくしてしまえ、ということにいずれなるで しょう。 皇室典範改正案は、これほど大きな歴史の転換を行なおうとしているのです。 |
勿論、失礼ながら藤原王朝の存続など真っ平ですが、でも、この藤原王朝に対して藤原氏は数学者らしからぬ妄想を抱いておられます。
皇室典範改正案では、「皇位の継承は男女を問わず天皇の直系の第1子を優先する」のですから、私が嫌悪する藤原王朝で代々第1子が男性である確率は、数代続けば藤原王朝の消滅を期待できるほど小さくなります。
ですから、私達は藤原王朝を数代我慢すればよいのです。
でも、その間に、藤原氏が表舞台へと天皇家の親族としてしゃしゃり出ないことを願っています。
ところで、次のように藤原氏が敬慕してやまないイギリスではどうでしょうか?
先ずは藤原氏のイギリスへの敬愛振りを抜粋させて頂きます。
イギリスの話をしましょう。かつて私がケンブリッジ大学で教えていたとき、大学の公式ディナーに参加したことがありました。300年前、ニュートンが教えていた時代と同じ部屋で、薄暗いロウソクだけをともし、教授も学生も黒いマントをまとい、厳かな銅鑼の音とラテン語の祈りを合図に、黙々と食事をするのです。これがケンブリッジの伝統であり、イギリス人は今でもそうした伝統に脆く心を保っています。 伝統、神仏、自然などに脆く心、精神性を専ぶ風土は、美の存在とともに、天才が輩出する条件です。そして、天才が輩出することは、世界から尊敬される品格ある国家の重要な指標のひとつです。イギリスはこれに当てはまります。だからこそ、ケンブリッジ大学だけに限っても60人以上のノーベル賞愛貫者を輩出し、経済が停滞しようが、世界から一目置かれているのです。 理屈や論理からすればどれだけ無意味であろうと、伝統を守り、それを誇れることは、その国、その民族の文明が成熟している証拠です。理屈や論理だけで考え、「改革=善」であると信じ、何でも改革しようとしているのは、国家に伝統のないアメリカぐらいです。 今の日本はその悪癖に冒されています。 |
さて、これ程までに藤原氏が敬愛し続けるイギリス王朝は?
イギリスの王位継承権は、男子の第1子が優先されます。
そして、今のエリザベス女王の御主人であるフィリップ殿下の祖父はギリシャ王です。
そうすると、エリザベス女王亡き後、暫くはイギリスでは、ギリシャ王朝が続くのでしょうか?
(藤原王朝以上の長い期間!!!)
更には、次なる藤原氏の見解を言及します。
天皇陛下は、日々、国民の安寧と平和を祈っておられるのです。このような存在は、大袈裟でなく、日本の資産であり、「人類の宝石」といえるものなのです。 一国民の安らぎともなっています。とくに国家、民族が危機に瀕したとき、皇室の存在感は増します。そのわかりやすい例が、大東亜戦争に負けたときです。あのとき、昭和天皇が玉音放送で「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」と語ったからこそ、日本人はひとつにまとまり、占領軍に対して抵抗運動も起こさず、復興に全力を挙げることができたのです。 私にいわせれば、皇室の存在は「日本の底力の秘密」「日本の国柄中の国柄」です。皇室の存在によって、日本と日本人はひとつにまとまることができるのです。 |
この件に関しては、『日本人と日本文化(司馬遼太郎&ドナルド・キーン著:中公新書)』から、抜粋させて頂きます。
司馬 だいたい「日本精神」とかなんとかいって、ひじょうにきわどいようにして言われる、あるいは日本人自身もそう信じているものは、みんなどうやら昭和初年にでき上がったものですね。なんとなく「日本精神」についてものを書いたりしやべったり、そして軍隊教育が社会に普及したりするのは、昭和初年ぐらいからです。大正時代はそういうことはないし、日露戦争当時はもう少し大らかだったと思います。 キーン もう少し前の時代、日清戦争のすぐあとに発表された泉鏡花の作品に、『海城発電』という短篇がありますよ。そのなかに、赤十字の人が捕虜になって、いろいろ自分の立場を弁解するんです。捕虜になってもいい、ちっとも恥ずかしいものでないと、そういうふうに書いてあります。当時その作品は公けに発表されたし、何も問題なかったのですけれど、しかし昭和十五年ごろに泉鏡花全集を出すことになったとき、それは禁じられていました。 司馬 そうですか。ですからやっぱり、日露戦争の時点では明治の洋化時代というか、開明時代というのは生きていたのですね。つまり西洋並みというようなことがあったんですな。なにか日本的なひじょうに暗いナショナリズムができあがるのは昭和初期からで、二十年までのほんのわずかの期間ですね。それを伝統だなんて、日本歴史のなかのどこからひっぱり出したのか、奇妙ですね。 キーン その点はもうちょっと皮肉なことが言えるかもしれません。古い伝統を作るには、十年聞くらいかかる。すべての人に、こういう伝統はヤマトの国が生まれてからの伝統だと教え込むには、十年ぐらいかかる。 司馬 ちょうど十年ぐらいですな。 キーン 逆に言えは、十年ぐらいかけると伝統を創りだすことができる、ということになるかもしれない。 |
少なくとも、徳川時代、庶民と皇室との関係はどうだったのですか!?
鎌倉時代は?
(その前の平安時代でさえ!?)
朝廷支配から武家支配に変わった際、武家が朝廷を廃止しなかったのは、武家の長が、自らの支配者としての正当性を、朝廷からの「征夷大将軍」として任命される必要があったからではありませんか?!
(今上天皇の御祖先の北朝天皇は、幕府存続の大義名分の必要性を感じた足利氏による支援の結果、南朝の天皇に対して優位となったのではありませんか?!)
この支配者の正当性を保証する為、天皇の場合は『日本書紀』の編纂が必要であったのだと存じます。
(この件は、前出の『天皇誕生(遠山美津男著)』にも記述されています。)
更に、武士達はどうだったのでしょうか?
これも先の『日本人と日本文化(司馬遼太郎&ドナルド・キーン著:中公新書)』から、次の箇所を抜粋させて頂きます。
キーン もしも日本に「忠義」という考え方が全然なければ、あまり驚きませんけれど、わりに「忠義」ということがやかましくいわれた国でしよっちゅう裏切りがあるのは、おかしいじゃないですか。 司馬 それがおもしろいんです。忠義というものは、つまりその人がサラリーをじかにもらっている主人と従者のあいだにだけ成立するものです。 ・・・ たとえば鎌倉の侍が郎党をもっている。つまり、金子次郎なにがしというものは、作男を郎党にして三十人ばかりつれて、熊谷次郎なにがしの傘下に入っていって、熊谷次郎なにがしは源頼朝の傘下に入っていく。そのときに、金子次郎なにがしというもののじかの作男、つまり戦争のときの郎党ですね、これは金子次郎にたいして忠義ですよ。ところが、その金子次郎の作男は、頼朝にたいして忠誠心はない。さらに一段階おりた熊谷次郎にたいしても忠誠心はないでしょう。 だから、肉体的な接触みたいなもののありうる近さの関係にだけ忠義というものは成立するので、要するに犬の忠義というと悪いですけれども、じかに食べものをくれる人、もしくはその家の主人にたいして犬は忠節である。しかし、他の家の人には吠える。それがだいたい鎌倉武士の忠義の原型でしょう。 |
これでは、武士、そして町民、農民が朝廷(天皇)の存在を意識していたとはとても思えません。
更に、司馬氏の発言を補足します。
明治までは捕虜になったら、敵側について敵のために働くことだってあるわけで、それは少しも不思議ではなかったのです。明治政府は、それを対外戦争でやられたら困ると思ったのでしょうね。日露戦争のとき、「なるべく捕虜になるな」と何べんか言っています。 「なるべく」というのは、たとえば乃木希典は、捕虜になった人にたいして、敵の場合も味方の場合も、わりあい寛大でした。捕虜になるなとはじめからよく言い聞かせておいて、たまたま状況によって敵側へつれて行かれればやむをえない。途中で逃げ帰ってくる者があると、乃木希典は「よくやった」というような考え方でした。 ・・・ 要するに「捕虜になるな」と教えたということは、明治の百姓の小せがれが兵隊さんになって行くんですから、教えておかなければ、昔の日本と同じように、将棋の駒を取られて向こうの駒になるということになりかねない。それではまずいということじゃないですか。 |
ですから、天皇皇后主催の園遊会で「日本中の学校で国旗を掲げ国歌を斉唱させるのが私の仕事であります。頑張っております」と発言してしまった「将棋の駒」の扱いの名手である米長邦夫氏等は、もう一度、「将棋の駒」の本来の精神に立ち戻って「国旗、国歌」の本来の精神を考え直しては如何なものかと存じます。
藤原氏は『国家の品格』に於いて、次のように記しておられました。
もちろん世界中の人間の脳の九九%は、利害得失で占められています。私も偉そうなことを言い続けていますが、いつも利害得失を考えています。 |
この件に関しては、全く藤原氏と同感です。
従って、私は、少しでも己の利害得失から逃れる為に、ブッダやキリストそして孔子のお言葉にすがります。
そして、更には、
ご誕生以来「利害得失を超越されておられる」天皇陛下 |
のお言葉を大変有り難く存じております。
そして、藤原氏が「天皇陛下は、日々、国民の安寧と平和を祈っておられるのです。」と書かれている天皇陛下のお気持ちを有り難く存じております。
(そして、又、私は、血縁関係は全く無いのに、先代の法王の生まれ変わりとして認められた上、
幼少時より次代の法王への道を歩まれるダライ・ラマ法王 |
にも、尊敬の念を抱いております。)
従って、藤原氏のように、
今、我々が考えるべきは、「いかにして男系をつなぐか」という一点だけです。 ・・・ 万世一系を平成に生きる我々が破壊してしまうことは、飛鳥から始まり、明治、大正、昭和と、全ての時代の全ての日本人の思いを踏みにじることです。そんなことをすれば、平成の民は傲岸不遜の民として歴史に残るでしょう。 |
と喚いたり、更には、
皇太子妃雅子様に対して、何やかやと批判したり、発言したり、 |
又、麻生外相のように、
「英霊からすると天皇陛下のために万歳と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロだ。だったら天皇の参拝なんだと思うね、それが一番」 |
などと、「脳の九九%が、利害得失で占められている」私達が、発言する事こそが「傲岸不遜」と感じるのです。
従いまして、皇室典範改正案を今国会の提出して成立を期す小泉純一郎首相の姿勢を私は支持します。
(補足)
雑誌『正論(3月号)』に、寛仁親王の、次の談話が掲載されていました。
札幌オリンピックが終わってしばらくたった頃でしょうか、高松宮様にお願いして、「陛下とサシでお話をしてみたい」と伺ったのです。将来の皇族のためにね。高松宮様が間を取り持って下さって、確か二度、まったく二人だけの会談が実現しました。その時に、震え上がったのは、陛下が「自分の意見を言った事が二度ある」とおっしゃった事です。それが世間に漏れていない話だったので、吃驚したのです。一つは二・二六事件の時に、ご自分で「馬引け」とおっしゃったのですね。そして鎮圧に行くと。二度日は(終戦を決めた)御前会議で、和平派と継続派が三対三となり、鈴木貰太郎首相(当時)が「三対三で決着がつきません」と絶妙のタイミングで陛下の御意見を伺った時です。ただ、陛下は御自分の意見を聞かれたので答えられた訳で、「御聖断」とはニュアンスが違うと思います。決して立憲君主の道を踏み外された訳ではないのです。 |
従いまして、先の麻生氏談話の“英霊からすると天皇陛下のために万歳と言った”との事態に仕向けたのは誰なのでしょうか?!
昭和天皇ご自身ではありません。
麻生氏の類の政治家達ではありませんか?!
(しかし、寛仁親王が「陛下とサシでお話をしてみたい」等と随分下卑た言葉を使われるのには心底驚きました。)
(蛇足)
先に引用させて頂いた『天皇誕生(遠山美津男著)』には、次の記述がありました。
神武の名前、カムヤマトイワレヒコのことである。 カムとは「神々しい」「神聖な」という意味。ヤマトは、もともとは奈良盆地の東南部、さらには奈良県(大和国)全体を指したが、この場合は日本列島を意味している。これも後述するように、神武は日本列島全体を制圧することはなかったが、彼のはるか後の子孫とされる天皇たちは、日本列島を領有・支配する大国の君主と称したから、その初代たる神武に日本列島を指す呼称を冠して飾りとしたまでのことである。 つぎにイワレヒコとは、「大和国の磐余地方に住む高貴な男性」という意味。ヒコは特殊な霊力をそなえた男性ということで、転じて高貴な男性を指す。女性であれば、ヒメである。 |
そこで、下種の私は考えました。
藤原正彦氏の「彦(ヒコ)」も、当然「ヒコは特殊な霊力をそなえた男性ということで、転じて高貴な男性を指す」の「ヒコ」に該当するのでしょうから、或いは、藤原氏は「特殊な霊力をそなえた高貴な男性」なのかしら?と考えました。
でも、そうでなかったら、藤原氏は、お名前からして「平成の民は傲岸不遜の民」の典型的な方なのかしら?と邪推したりもしました。
(お名前に「彦」の文字を使われておられる方々御免なさい。)